<人権問題に関わるダブルスタンダード>
フィリピンの新大統領、ロドリゴ・ドゥテルテ氏が推し進めている、麻薬犯罪者らに対する「超法規的殺人」行為が国際社会で問題視されている。
麻薬の使用や密売を疑われた人たちが、裁判にかけられることなく、捜査中の警察官によって、既に1千人以上が殺されている。
そこで国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長はもとより、米国のバラク・オバマ大統領初め、主だった首脳が非難の声を上げている。...
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<人権問題に関わるダブルスタンダード>
フィリピンの新大統領、ロドリゴ・ドゥテルテ氏が推し進めている、麻薬犯罪者らに対する「超法規的殺人」行為が国際社会で問題視されている。
麻薬の使用や密売を疑われた人たちが、裁判にかけられることなく、捜査中の警察官によって、既に1千人以上が殺されている。
そこで国連の潘基文(パン・ギムン)事務総長はもとより、米国のバラク・オバマ大統領初め、主だった首脳が非難の声を上げている。
また、本邦の大手メディアも、“深刻な麻薬汚染を食い止めるためとはいえ、剥き出しの暴力と見做される人権蹂躙は許されない”と批判している。
筆者も、冤罪の可能性もあることから、法治国家に求められる、通常の司法手続きを経ての犯罪者や容疑者の裁きが必要であることに異論はない。
しかし、ここで筆者が敢えて言いたいことは、いやしくも正当な選挙で当選した一国家の首脳の方針について批判するからには、批判する側の事情-人権問題で至らない点等も謙虚に評価・反省した上で行うことが望ましいということである。
すなわち、上記に挙げた非難声明を出している代表、国、メディアに対して、次の疑問をぶつけたい。
(1)潘基文:国際人権NGO「人権監視団(ヒューマン・ライツ・ウォッチ)」の2011年1月発表の年次報告書において、“人権侵害を繰り返す国々に対して、国際的な地位がそれほどでもない国々に対しては強い批判を口にするが、中国のような大国に対しては何もしない”と批判されている。
今回の場合も、フィリピンに対して強烈な非難の声を上げているが、習政権が今年も多くの人権活動家・弁護士等の不当な逮捕・拘留を通じての弾圧を継続しているにも拘らず、表立っては一切批判めいた発言も行動もしていない。
(2)米国:6月14日付
当コラムNo.50「米国のダブルスタンダード」の中で述べたとおり、“2015年に世界92ヵ国で発生したテロ事件による死亡者(自爆テロ犯人含む)は約2万8,300人で、毎年3万人前後に上る米国一国の銃犠牲者数の方が多い”にも拘らず、効果的な銃規制対策など全く進展がない。
更に、8月16日付
当コラムNo.63「米国の人権問題に関わるダブルスタンダード」でも、“中国や北朝鮮に対して、事あるごとに人権問題改善を声高に迫っているが、昨今、特に人種差別が根底にあるとして問題視されている、白人警官による黒人被疑者の殺人事件等は一向に改善の兆しがない”とも指摘している。
(3)本邦メディア:2月15日付
当コラムNo.11「少年法と人権」の中で述べたが、“(川崎市の多摩川河川敷で発生した殺人事件について)加害少年のことは人権問題を考慮して実名報道を控えているにも拘らず、被害少年やその遺族の個人情報等は垂れ流し報道しており、被害少年の尊厳及び遺族の人権を尊重しているとはとても言えない”。
更に、2月26日付
当コラムNo.16「表現の自由(出版の自由)」でも述べたとおり、1997年の神戸連続児童殺傷事件の犯人である、酒鬼薔薇聖斗こと「少年A」執筆による
『絶歌』の出版に当り、被害児童の尊厳はもとよりその遺族の心情を全く無視した出版物であるにも拘らず、売れるものなら何でも良いと出版する会社も会社なら、その発行を止めさせるどころか、それを批判する記事もお目にかかっていない。
他人、ましてや他国の方針を批判する以上は、常に襟を正す態度を示しつつ行って欲しいと考える。
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<表現の自由(出版の自由)>
日本国憲法は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(1条)。
2月15日付本コラム
No.11<少年法と人権>の中で、表現の自由があっても、被害少年及び遺族の人権や生活権に配慮すべきと論じ、また、2月16日付同
No.12<放送法と表現の自由>の中で、政治的中立であるべき報道や放送番組に疑問が生じるようなことがあった場合、行政の介入・指導ではなく、まず放送局の自浄作用を司る「放送倫理・番組向上機構」の手に委ねるべきであると論じた。...
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<表現の自由(出版の自由)>
日本国憲法は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(1条)。
2月15日付本コラム
No.11<少年法と人権>の中で、表現の自由があっても、被害少年及び遺族の人権や生活権に配慮すべきと論じ、また、2月16日付同
No.12<放送法と表現の自由>の中で、政治的中立であるべき報道や放送番組に疑問が生じるようなことがあった場合、行政の介入・指導ではなく、まず放送局の自浄作用を司る「放送倫理・番組向上機構」の手に委ねるべきであると論じた。
今回は、表現の自由の中の「出版の自由」について論じたい。
昨年1月初め、フランスの風刺週刊誌
『シャルリー・エブド』がイスラム教の預言者ムハンマドを侮辱する風刺画等を掲載することを繰り返したことで、イスラム過激派の襲撃に遭った。
一切のテロ行為は非難されることである。
しかし、表現の自由を都合よく解釈して、他宗教やその宗教徒を陥れる風刺等、行き過ぎた風刺も非難されるべきである。以前からシラク元大統領も、“行き過ぎた挑発”として批判していた。
自由には権利とともに義務が伴う。他人の尊厳や思想・宗教を否定、侮蔑するような表現はしてはならないことだと考える。
直近の話であるが、2月24日付
Globali「カナダ史上最悪の連続殺人犯による手記がアマゾンで販売され波紋」で触れられたとおり、この件については、関係者、警察当局からのクレームもあって、出版社は発売2日後に販売を中止している。
当該事件の被害者や遺族はもとより、カナダ国民にとって、これは至極まともな判断、結果であると考える。
翻って日本はどうか。
昨年7月、1997年の神戸連続児童殺傷事件の犯人である、酒鬼薔薇聖斗こと“少年A”執筆による
『絶歌』が、太田出版(注後記)から出版されて物議を醸した。
被害児童の遺族は、出版の話が出た当時、当然のことながら出版差し止めを強く求めたが、結局出版を止められず、「息子を殺され、(今度はかかる本が出版され)また精神的に殺され、彼(少年A)に2度殺された」と無念の気持ちを吐露している。
一体、犯行当時14歳の少年でも今は32歳になっている“少年A”が執筆者として本名を名乗らず、遺族の心情への理解が足りず、しかも贖罪の気持ちが全く感じられないような本の出版が、果たして許されて良いのであろうか。
週刊誌情報でしかないが、5千万円は下らないとされる印税は、遺族に支払われることはなく、“少年A”が、彼と同棲している女性との国外での生活に充てるためという。
実は、“少年A”の両親は2001年7月、
『「少年A」この子を生んで・・・(父と母悔恨の手記)』(文春文庫)という本を出版していて、多額の印税収入を得ている。印税の使い道を聞かれてその両親は、「(“少年A”の)弟たちの大学の費用に充てるため」としていたが、実際は家を建て替えるために使われたと報道されている。
この親にしてこの子あり、という非人間的な家庭環境が伺われる情けなさである。
それ以上に、表現の自由(出版の自由)の錦の御旗の下、売れるものなら何でも良いと出版する、形振り構わぬ出版業界の態勢は、何とかならないものであろうか。
一人でも多くの心ある人が、今後かかる問題作は決して買わず、更には、(カナダでの対応のように)非人間的な問題作は廃刊に追い込むような運動が巻き起こることに期待したい。
(注)太田出版:お笑い系芸能事務所の太田プロダクションから独立した、サブカルチャー系の出版社。
『完全自殺マニュアル』『永遠の0』『自殺サークル』等、他社から敬遠される題材を扱った、先鋭的な作品にも媒体を提供。その結果、社会規模の論争が起こり、有害図書指定を受ける問題作となった書籍も存在。
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