<表現の自由(出版の自由)>
日本国憲法は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(1条)。
2月15日付本コラム
No.11<少年法と人権>の中で、表現の自由があっても、被害少年及び遺族の人権や生活権に配慮すべきと論じ、また、2月16日付同
No.12<放送法と表現の自由>の中で、政治的中立であるべき報道や放送番組に疑問が生じるようなことがあった場合、行政の介入・指導ではなく、まず放送局の自浄作用を司る「放送倫理・番組向上機構」の手に委ねるべきであると論じた。...
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<表現の自由(出版の自由)>
日本国憲法は、「言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」(1条)。
2月15日付本コラム
No.11<少年法と人権>の中で、表現の自由があっても、被害少年及び遺族の人権や生活権に配慮すべきと論じ、また、2月16日付同
No.12<放送法と表現の自由>の中で、政治的中立であるべき報道や放送番組に疑問が生じるようなことがあった場合、行政の介入・指導ではなく、まず放送局の自浄作用を司る「放送倫理・番組向上機構」の手に委ねるべきであると論じた。
今回は、表現の自由の中の「出版の自由」について論じたい。
昨年1月初め、フランスの風刺週刊誌
『シャルリー・エブド』がイスラム教の預言者ムハンマドを侮辱する風刺画等を掲載することを繰り返したことで、イスラム過激派の襲撃に遭った。
一切のテロ行為は非難されることである。
しかし、表現の自由を都合よく解釈して、他宗教やその宗教徒を陥れる風刺等、行き過ぎた風刺も非難されるべきである。以前からシラク元大統領も、“行き過ぎた挑発”として批判していた。
自由には権利とともに義務が伴う。他人の尊厳や思想・宗教を否定、侮蔑するような表現はしてはならないことだと考える。
直近の話であるが、2月24日付
Globali「カナダ史上最悪の連続殺人犯による手記がアマゾンで販売され波紋」で触れられたとおり、この件については、関係者、警察当局からのクレームもあって、出版社は発売2日後に販売を中止している。
当該事件の被害者や遺族はもとより、カナダ国民にとって、これは至極まともな判断、結果であると考える。
翻って日本はどうか。
昨年7月、1997年の神戸連続児童殺傷事件の犯人である、酒鬼薔薇聖斗こと“少年A”執筆による
『絶歌』が、太田出版(注後記)から出版されて物議を醸した。
被害児童の遺族は、出版の話が出た当時、当然のことながら出版差し止めを強く求めたが、結局出版を止められず、「息子を殺され、(今度はかかる本が出版され)また精神的に殺され、彼(少年A)に2度殺された」と無念の気持ちを吐露している。
一体、犯行当時14歳の少年でも今は32歳になっている“少年A”が執筆者として本名を名乗らず、遺族の心情への理解が足りず、しかも贖罪の気持ちが全く感じられないような本の出版が、果たして許されて良いのであろうか。
週刊誌情報でしかないが、5千万円は下らないとされる印税は、遺族に支払われることはなく、“少年A”が、彼と同棲している女性との国外での生活に充てるためという。
実は、“少年A”の両親は2001年7月、
『「少年A」この子を生んで・・・(父と母悔恨の手記)』(文春文庫)という本を出版していて、多額の印税収入を得ている。印税の使い道を聞かれてその両親は、「(“少年A”の)弟たちの大学の費用に充てるため」としていたが、実際は家を建て替えるために使われたと報道されている。
この親にしてこの子あり、という非人間的な家庭環境が伺われる情けなさである。
それ以上に、表現の自由(出版の自由)の錦の御旗の下、売れるものなら何でも良いと出版する、形振り構わぬ出版業界の態勢は、何とかならないものであろうか。
一人でも多くの心ある人が、今後かかる問題作は決して買わず、更には、(カナダでの対応のように)非人間的な問題作は廃刊に追い込むような運動が巻き起こることに期待したい。
(注)太田出版:お笑い系芸能事務所の太田プロダクションから独立した、サブカルチャー系の出版社。
『完全自殺マニュアル』『永遠の0』『自殺サークル』等、他社から敬遠される題材を扱った、先鋭的な作品にも媒体を提供。その結果、社会規模の論争が起こり、有害図書指定を受ける問題作となった書籍も存在。
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